岩波文庫の斎藤茂吉


 『斎藤茂吉歌集』(山口茂吉・芝生田稔・佐藤佐太郎編、第22刷改版、1978年9月18日)のことです。


 現役の版です。いま現在書店に並んでいます。


 この文庫のページづら、つまり活字の組み方が根っから気に入りません。


 どう組んであるかというと、一ページに十三首入っているのはいいとして、字間を全く空けずに、散文と全く同じ組み方で組んであるのです。


 しかも、その活字は、当時出た岩波文庫はたいていそれであった、あの精興社の上下に平べったい感じのする活字です(新書版の漱石全集の活字、と言った方がわかりやすいでしょうか)。


 このやり方で短歌を組むと、ページは上と下が真っ白に空いて、その間に黒い帯を横たえたように歌が並んでいる感じになります。


 歌なんて読んだこともない編集者の仕事に違いない、と思うしかありません。


 歌には調べというものがあります。言葉が演奏する音楽ですね。言葉を配列して、それを読みくだすだけで、メロディーとリズムが鳴りわたるのです。茂吉の歌なんて、極論すれば調べだけでもっているようなものです。


 音楽は時間の芸術です。調べが鳴りわたるためには、一定の時間をかけて読み下さなくてはなりません。


 1978年第22冊改版の『斎藤茂吉歌集』の組み方では、そういう読み方ができません。ひとつひとつの歌は上下の白い空間に圧迫されて、真ん中にちぢこまっています。ゆっくり読んで調べを味わいたくても、一瞬で上から下まで読めてしまいます。


 この第22刷改版は、1958年9月5日第1刷の旧字・旧仮名の元版を、新字・旧仮名に組み直したものです。私は古本屋で元版を手に入れて愛蔵しています。


 この元版は、ちゃんと歌がわかる編集者の仕事で、一ページに十三首入っている点、精興社の活字である点は同じでも(ポイントもどうやら同じ)、字間を少し空けて組んであります。


 具体的には、

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

の歌を物差しではかってみると、新版では7センチ1ミリ半であるのが、元版では8センチ7ミリ半です。22パーセント増にあたります。


 これならばゆっくりと読むことが可能です。


 たぶん改版にあたった編集者(新版のあとがきには誰と誰だか実名が挙がっているのでちょっと気の毒なのですが)は、これだと何だか古くさい、とくに縦方向に比べて、横方向がちょっと窮屈な感じがすると思って、ああいう改悪をしたのではないでしょうか。


 さて、昨日、大型書店の岩波文庫の棚の前に立って、近代短歌の歌集をいくつか手にとってみました。


 1950年代くらいに刊行されて改版されていないもの(吉井勇歌集など)は、1958年元版と同じ組み方です。


 これに対して、1980年代以降の新刊(与謝野晶子歌集など)や改版(『赤光』など)は、大きな活字(精興社ではない)を使って、ゆったりと組んであります。おそらく活版からオフセットになったせいもあるのでしょう。


 今もってああいう珍妙な扱いをされているのは、どうやら『斎藤茂吉歌集』だけみたいです。


 私は1958年元版を古本屋で二冊買って愛読しているのですが、インクが薄くなり紙が茶色くなっているため、よほど明るいところでないと老眼には辛いです。しかもいささか紙質が悪くて、ポストイットを貼ってはがすと、ページそのものの表面が活字ごとべろっとはがれてきたりします。


 1958年元版の紙型が残っていたら、リクエスト復刊してくれないかなあ、と思う昨今であります。