『ベルセルク』19巻の「まぐわる」


 『ベルセルク』は単行本がまとまるごとに楽しく読んでいます。以下は、19巻のある箇所の言葉づかいについての話です。


 あのマンガはほぼ全ページが裁ち切りなのでページ数を示してもあまり意味がありません。「野望少年」の回の黒ミサの場面で祭司のせりふ。

そしてその後魔女殿には…この雄山羊様とまぐわり我らの真の家族となっていただく


 続いて「再会」の回、雄山羊様のせりふ。

渡さない/魔女…/まぐわる/オレの…


 この「まぐわる」というのはもちろん誤用なのですが、どう直せばいいか、となるとなかなか難問です。


 「まぐわる」はここだけでなく、どこか他でも見たことがある(メモをとっておきませんでした、残念)ので、ちょっと腰を据えて考えてみます。


 まず、三省堂大辞林 第二版』を見ますと、名詞「まぐわい」の項目があります。

まぐわい ―ぐはひ【目▽合ひ】(名)スル
(1)目を見合わせて愛情を通わせること。めくばせ。「―して相婚(あ)ひたまひて/古事記(上訓)」
(2)情交。性交。「唯その弟(おと)、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)を留めて一宿(ひとよ)―したまひき/古事記(上訓)」


 つまり「まぐわい」は名詞であるが、ただし「××をスル」だけでなく「××スル」をも認める、というわけです。これに従えば『ベルセルク』のせりふはそれぞれ、「この雄山羊様とまぐわいし」(あるいは祭司のせりふですからもったいをつけて「まぐわいなし」「まぐわいをなし」)、「(魔女と)まぐわいする」が正しいということになります。


 広辞苑も、三省堂の例解古語辞典も同じで、まあこのへんが順当なのですが、ところが、私の机のまわりに、ただひとつ反旗をひるがえしている字引があります。三省堂国語辞典(第五版)がそれです。

まぐわい マグハヒ(名)〔文〕男女のまじわり。[動]まぐわう(自五)。


 つまり、独立項目にこそ立てていないが、ワ行五段活用の自動詞「まぐわう」を認めちゃっているわけです。これだと『ベルセルク』のせりふは、「雄山羊様とまぐわい」「(魔女と)まぐわう」でも正しいことになります。


 しかしワ行五段活用の口語自動詞「まぐわう(マグハフ)」を認めちゃいますかあ?


 「まぐわう」だけならそんなにおかしくないが、活用させるとえらいことになりますよ。まぐわわない、まぐわいます、まぐわう、まぐわうとき、まぐわえば、まぐわえ、まぐわおう、ですぜ(ワープロを打っていて、オレは何をやっているんだ、と今更ながら後悔する)。


 文語(ハ行四段活用)だと、マグハハズ、マグハヒテ、マグハフ、マグハフトキ、マグハヘバ、マグハヘ、ですが、これだっておかしい。


 そもそも「マグハヒ」は上代語で、この間買ったちくま文庫の『言海』によると語源は「目交合(マクヒアヒ)の約と云ふ」(「クヒ」は「カヒ(交ひ)」の古形だというんでしょうね)なんて書いてあり、「合ふ」という動詞に発していることは間違いないが、とにかく上代からこの言葉は名詞なんです。


 たとえば「目くばせする」を「目くばせる」「目くばす」とは言わないでしょう。「物まねする」を「ものまねる」「ものまぬ」とは言わないでしょう。「無理強いする」を「無理じいる」「無理じふ」とは言わないでしょう。


 ただ三国(三省堂『国語辞典』の略)の怖いところは、見坊豪紀の厖大な用例カードに基づいていることです。たぶん動詞「まぐわう」の用例は実在するんだと思います。


 ただし、それはおそらく江戸以前の用例ではない。想像するに、柴田錬三郎あたりの、戦後の時代小説なんじゃないでしょうか。


 さらにいえば、この新しい擬古適用法としての「まぐわう」はえらく露骨な言い方にきこえますが、言うまでもなく「マグハヒスル」は上代から婉曲で上品な言い方なんですね。


 結論から言うと、祭司のせりふは「まぐわいをなし」で可、雄山羊様のせりふは三国だけが認める新しい擬古的用法としての「まぐわう」で辛うじて可、というところでしょうか。


 あまり自信がないので、反論を歓迎します。