リデル・ハート『戦略論』の翻訳いじり(続き)

 引き続き、リデル・ハート『戦略論』の訳本(1971年刊)を回顧して嫌味を言っています。

[上巻96ページ]

【訳文】(パラグラフ途中)しかし、ケベック以北のフランス軍背後に対するウルフの最後の無謀な上陸が成功したのに比較すると、これらの囮行動の失敗には一つの教訓が含まれている。敵を陣地外へ誘引するだけで[ママ]不十分であって、敵を陣地外へ誘出することが必要であった。それでまた、ウルフが自己の直接的アプローチの準備として行った各種の囮行動の失敗にはもう一つの教訓が追加されることになる。敵に対して秘匿することだけでは不十分であって、敵を牽制しなくてはならないのである。敵を牽制しなければならないのである。この牽制とは、敵の思考を欺くことと、敵が反応に出る自由を奪うことと、敵兵力の分散との三つを結合して行うことを意味するのである。(パラグラフ終わり)

【原文】... But in the failure of these, compared with the success of his final hazardous landing on the French rear above Quebec, there is a lesson. To entice [ital.] the enemy out was not enough; it was necessary to draw [ital.] him out. So also there is a lesson in the failure of the feints by which Wolfe tried to prepare his direct approach. To mystify [ital.] the enemy was not enough; he must be distracted [ital.] --- a term which implies combining deception of the enemy's mind with deprivation of his freedom to move for counter-action, and with the distension of his forces.

【コメント】前回の続き。長いですが著者の考え方がまとまって述べられた箇所です。「ケベック以北のフランス軍背後」なんて地図を見てないことが明らかな間違いもありますが(「ケベック上流」が正しい)、ここではむしろ原文で四つのイタリックで示された重要語の訳語の代替案を考えてみました。まず改訳案をごらん下さい。

【改訳案】しかしこれらのおとり作戦の失敗を、ウルフが最後に敢行したケベック上流のフランス軍背後への上陸作戦の成功と比較するならば、一つの教訓が引き出せる。つまり、敵を誘い出すだけでは不十分で、引きずり出すことが必要だったのである。同様に、ウルフのおとり作戦が、その後の直接的アプローチのお膳立てをするうえでは失敗であったことからも、一つの教訓が引き出せる。敵を当惑させるだけでは不十分で、攪乱しなくてはならなかったのである。攪乱という用語はここでは、敵の頭脳を欺くこと、味方に対応しようとする敵の行動の自由を奪うこと、敵の兵力の締まりを弛ませること、これら三つを組み合わせて行うことを意味する。

【補注】

  • entice (out) 誘引する→誘い出す(利をもって誘うこと)
  • draw (out) 誘出する→引きずり出す(いたたまらなくさせていぶし出すこと)
  • mystify 秘匿する→当惑させる(こちらの意図について敵に迷いを起こさせること)
  • distract 牽制する→攪乱する(上の通り、敵の将軍は何がどうなっているのかわからず、何をすればいいか指示も出せず、敵の部隊は戦線の向きを変えさせられたり陣地を作らされたり行軍隊形にされたり、くるくる変わる命令に隊形も気持ちもテンションをなくしてしまう状態、つまり「混乱dislocation」を作り出すこと)

 ホームページにも述べたことですが、distractionとあれば自動的に「牽制」と訳す習慣ははっきり言って有害です。「牽制」というのは、本軍がどこかよそで何かをする間、敵の本軍に強力な補助部隊を貼りつけて、うかつに布陣体制から行軍体制に移れないようにすることをいい(漢字そのものがそういう意味です)、リデル・ハート的な意味でのディストラクション(敵の背後を脅かしたり、複数の目標を狙える線を進んだりして、敵の心理的動揺をねらう)とは全然別の言葉です。