リデル・ハート『戦略論』の翻訳いじり(続き)

 引き続き、リデル・ハート『戦略論』の訳本(1971年刊)を回顧して嫌味を言っています。

  • 110ページ。「しかし、彼(ナポレオン)は、それに続く行動において敵の両翼を席巻したので敵は平野へ押し返された」。原文は"But in his next move both their flanks were turned and they were hustled back into the plains." "turn"というのはここでは敵の横腹をぐるりと巻くように迂回して後ろに出ることですが、以前ホームページで指摘したように「席巻」という漢語にはいささかもこういう意味はありません。典拠は史記、意味は「むしろを巻くように片端から土地を攻め取ること」とどんな字引にも書いてあるはずです。改訳案は「両側面を迂回されてしまったので、いぶし出されるように平野へと後退した」。
  • 同。「その心理的効果はピエドモント側に休戦の訴えをさせるためのいかなる実際的撃破も不必要とした」。原文は"and its psychological effect dispensed with any need for physical defeat to make the Piedmontese appeal for an armistice." 「心理的」の反対は「実際的」なんでしょうか。改訳案「いかなる物理的敗北も不必要とした」。
  • 同。「彼は今や単独のオーストリア軍よりも優勢(三万五千対二万五千)であったが、しかし依然として注意深くオーストリアへ向かって直接前進を行わなかった」。後半の原文は"but he still took care not to advance directly upon them." もちろん「オーストリア軍に対して」であって「オーストリア(本土)へ」ではありません。ケアレスミスだと信じたいが、しかしこういうふんどしのゆるんだ訳文に出会えば読者は当時の私のように、「ピエモンテからオーストリア本土に直接駆けのぼる道がどこかにあるのだろうか」とあらぬ不安を抱くものなのです。こういう訳文を商品にしてはいけません。